この間書いたエッセイ『「ツイてない」は私の辞書にない』は私にとってまさに怒涛のような2016年の出来事だ。
5月に父が他界してからわずか半年の間に、夫の入院、母の入院、再び夫の長期入院、そして私の2度の入院。そこまでみんなで病院と仲良くならなくてもいいと思うんだけど・・・
私はそれまでのウン十年間、一度も医者にかかっていない。年に2回ぐらい熱出して(恐らく過労)、2〜3日寝込む程度で、基本「寝てたら治る」という信念(?)のもと過ごしてきた、かなり元気な人だった。そんな頑丈な私でも、さすがに手術で半分以上の血が入れ替わったら、考えも変わるってもんだ。
病院のベッドの上で「今の医療がなかったら、もし100年前だったら、私、死んでたんだなぁ」なんてことを考えていた。
そして「我慢するのはやめよう」と思った。
・・・
20歳前後の頃、好き勝手していると身内から咎められることが多かった。私は自分らしく生きたいだけだったのに。人として大事なモノが欠如しているようなことまで言われ、いつの間にかコンプレックスになっていたのだと思う。たぶんその反動もあったのだろう。その後だんだんと自己犠牲に走るようになっていった。そして走り過ぎた。
あの人のために、この人のために、と一歩下がって縁の下の力持ちになろうとして・・・何度も壊れかけた。元来そういうタイプの人間ではないのに。もう限界にきていることを感じつつも、それでも動きを止めることができずにいた。そんなタイミングでの「怒涛の2016」だったのだ。
あれもこれも大変な中、自分がまさかの緊急入院。
「そう来たか」
自分がグズグズしていたために、強制的に動きを止められたのだと感じた。
最初はそんな状況で入院なんて絶対無理だと思っていたけれど、医者に説得され、観念して手放してしまえば、案外どうにかなるものだ。自分が勝手に抱え込み過ぎていたんだなぁと解ったとき、そんな人生やめようと思った。自分らしさを取り戻そうと。
・・・
人生の後半は本当の自分を生きたい。
そのために必要だったのは、まず自分を優先することだった。誰かのことを考えて、自分の動きを考えるんじゃなく、自分がどうしたいか考えてから、周りとどう調整できるかを考える。自分の中の思考の持っていき方を変えるだけなんだけど、正直、驚くほど楽になった。
振り返ってみれば、どうしてそこまで自分を苦しめていたんだろうと思う。周囲からの圧力、思い込み、罪悪感・・・どれも必要ないんだよ。
本当の自分を生きるということは、本来の自分の役割を果たすということ。本当の自分でなきゃ、本当の意味で人の役には立てないんだと思う。
ただただ、淡々と、自分が自分であることを忘れずにやっていこう。